井上庸子--満ちてゆくホワイトスペース

 

 モデルの女性の頭の上にふわりと浮かんでいるナイキのマーク。余白の上を風が渡っていくような、ビルの屋上にあるガーデンを表現した一連のグラフィックス。井上庸子が作り出す余白やスペースは、二次元の平面なのに、膨らんでいるように見えることがある。


 井上庸子を美術の世界に引き入れたのは、中学時代の女性美術教師だった。若くてさばさばとした人柄の先生は、授業の前に生徒たちに絵を示し、「これを見てどう思う?」と自由な発言を促すようなタイプの人だった。井上は美術部に入部し、油絵などを描くようになった。中学3年生の時に授業で描いた選挙ポスターが、選挙管理委員会に正式採用された。印刷されたポスターは街に貼られ、図柄はポケット・ティッシュにもなった。自分の手元に残り、多くの人の手に渡っていくティッシュになったことの方が、中学生の井上には嬉しかったという。高校からグラフィックデザインに興味を持つ。できたら美大に進学したいと思うようになった。堅実な会社員などの道ではないアート系の道。父親に頭を下げて頼んだ。

 

 武蔵野美術短期大学のグラフィック専攻科を卒業後、個人デザイン事務所を経て、アフタヌーンティーなどを展開するサザビーに入社。グラフィックデザイナーとして働いた。サザビーに不満はなかったが、サン・アドへの扉が開かれた。上司のディレクターに相談をしたところ上司は理解を示してくれ、井上は「では武者修行してきます」と挨拶を交わし、次の職場に移っていった。23歳のことだった。

 

 サン・アド入社時に、彼女は人事担当者に「葛西薫さんのもとで働きたい」と自分の希望を述べた。望みは叶い、皇居近くの丸の内パレスビルで、彼女は自分の場所を葛西薫のデスク近くに持った。その葛西薫から怒られたことは一度もなかった。「ただ」と彼女は言う。
「私がキャッチフレーズのレイアウトをしていた時に、葛西さんに『井上さん、これ、ちょっとふんどしがゆるいね』と言われて、彼はキュッとそれを角の方へ動かした。なぜかその時のことをよく覚えています」。
 2000年に14年間在籍したサン・アドから独立。北青山に事務所を構え、今に至っている。

 

 3人のアーティストたち

 

 彼女のデザインの特徴は、「余白を満たす静かな力」のようなものだろう。それは「緊張感」などとは異なる味わいである。ホワイトスペースがない場合でも、全体にある種の浮遊感が漂う。そうした特徴を説明することは難しいが、ヒントは彼女の家や事務所の本棚にあった。蔵書の中で目立っているのは、彫刻家アレキサンダー・カルダー、音楽家武満徹、陶芸家ルーシー・リー(Lucie Rie)のものである。こういったアーティストたちの向こう側に彼女のデザインを置いてみると、その不思議な力の拠り所が見えてくる。

 

 彼女は、ニューヨークのホイットニー美術館で購入したというカルダーの『カルダー・アット・ホーム』を取り出し、見せてくれた。そこにはカルダーが自宅で手作りしている針金の人形たちや、それらを彼自身が動かして上演する「カルダー・サーカス」の模様が収められている。この人形サーカス劇の制作から、空中でゆらゆらと動く「モビール」が生まれた。

 

 また武満徹の本は、表題がすでに井上デザインにとって意味深い。『音、沈黙と測りあえるほどに』。その冒頭、滝口修造の「余白へ」と題する献辞が置かれている。「人は声や音なしでは暮らせないように、人は沈黙なしでも生きることはできない」。

 

 そして「友人から教えてもらったんです」というルーシー・リーの存在。当時、井上庸子は、自分のデザインについて振り返る機会を持った。その時に、進むべき道と方向性に自信と力を与えてくれたのがルーシー・リーの陶芸作品だった。「この人の作品は、弱いけど、強い」。そう思った。三宅一生がそこに「創造の結晶を見た」と賛えたルーシー・リーの陶芸作品は、存在が希薄になっていくほど、要素が少なくなっていくほどに、強い存在感と説得力を放ち出すというような立体である。
 こんなふうに、彫刻家、陶芸家、音楽家たちの作品を、井上庸子のグラフィック表現の上に重ねてみると、彼女の作り出すものが、また違った表情で見えてくる。沈黙を測っているような何もない白いスペース。それはだからこそ、二次元を越えたふくらみを含み持っているのだろう。

 

 

INOUE YOKO 

1964年生まれ。武蔵野美術短期大学専攻科グラフィックデザイン専攻卒業。1987年、サン・アド入社。2000年10月からフリーランス。
1993年「東京コピーライターズクラブ30thマーク」で東京TDC一般銀賞。2000年「ナイキ ウィメンズ キャンペーンで東京ADC賞受賞。