仲條正義「デザインのワンダーランド」 Photo : Jason Evance
1972年、39歳の仲條正義は10年続いた自社(株式会社仲條デザイン事務所)のデザインプロダクション体制を解体し、自分とアシスタントだけにした。それまではパッケージ、店舗設計、エディトリアルデザインなど、手広く仕事を進めていたのだが、その一方でスタッフにボーナスを支払うたびに銀行に出向き借金を申し込んでもいた。そういう時代も仲條正義の足跡の中にはある。
ひとりになった自分が主に手がけていたのは資生堂の会員誌『花椿』のアートディレクションだったが、同年代のデザイナーたちがデザイン業界の中で次々に華々しく輝きを放っていく中で、彼は着替えの服も満足に買えず、仲間たちの集まりにも極力顔を出さないようにしていた。そんな局面も、彼の個人史の中に刻まれている。
では彼がどういう形で自分の創造性を発揮し、周囲に認めさせていったのか。彼が取ったのは、「個展」という武器だった。日頃多くの注目される仕事をしているデザイナーが個展をやる場合、会場はすぐに既存の作品で埋まる。しかし彼の場合は、そうしたものがなかった。広いスペースをその都度新作で満たした。まとまった量の新作を作り出す集中力と創作のエネルギーが、彼の周りにあった目に見えない壁を破壊し、新しい地平に連れ出していく。
第一回目が1973年の「スタジオ展」。事務所を二人体制に絞った直後に開かれた。2回目は1988年の「NAKAJOISH」。「スタジオ展」の後に、ADC会員になり、ADC会員賞受賞、講談社出版文化賞などが出来事として続く。「NAKAJOISH」を開催すると、ADC会員最高賞、勝見勝賞、毎日デザイン賞、日本パッケージデザイン賞などがもたらされる。つまり彼の個展に来た人々は、そこに非常にユニークで、確かなデザイン力や見識、審美眼、デザイン思想に裏づけられた魅力的なクリエーターの実像と実力を目の当たりにするのである。そして仲條正義という名前が持つ情報量と価値が業界の中で変わっていく。個展の開催をきっかけに、彼は確実に階段を上っていった。
彼が個展を開く時に、決めごとのようになっているのは、毎回新作で会場壁面を埋めるということと、いい意味で来場者たちの期待を裏切る(前回の延長上に立たない)ということだ。「スタジオ展」では定規とコンパスで描いた形状のはっきりした図柄が基本になっていたのに対して、「NAKAJOISH」では一転して乱暴な手描きをそのまま提出したような世界が全面展開された。
こうした作業の基礎体力を作っているのが、1967年から40年間続けている「花椿」のエディトリアルデザインだろう。つねに鮮度が求められる雑誌誌面のディレクター役として、あらゆるジャンルに目配りしながら、各素材を時代と斬り結んだ形でページを仕上げて毎号提案する。それを作り出す具体的手作業の運動量の蓄積が、新作を短期間に量産する体力となり、時代とリアルに向き合う雑誌誌面制作の継続が、反射神経を鋭敏なまま保った。こうしてデザイナー仲條正義は、月々日々に鍛えられ、研ぎ澄まされてきた。
現在、彼が事務所に顔を出すのは毎日ではない。絵を描く作業は、自宅で行われる。1階のテレビの前(現在家を新築中)に置かれた朱塗りの大きな座卓の上に絵具などを並べ、家族が寝静まった夜から朝まで一気に作業する。描き上げたものは事務所にファックスで送っておく。すべての要素を組み立てて、完成させていくのは事務所作業であり、スタッフと一緒に進めていく。彼の机の上には、20年以上使ってきているA3サイズほどのアルミ製製図板がある。付属のT字型定規と三角定規で直角と平行を出す。製図板の上部裏には木が打ち付けられ、板面が作業しやすい傾斜をもつように工夫されている。デジタルの時代になり、事務所にもPCが導入されたが、それを使うのはスタッフであって彼ではない。「花椿」の入稿原稿もいまだに版下で、印刷所がそれに対応している。
プロフィール
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